義母の父が亡くなって今年で50年。
五十回忌を小さく執り行いました。
子孫へ受け継がれる場所
「かじやの」について村の人と話していると、旧蘆田家で暮らした祖父の名前が出てきます。
いわゆる「地元の名士」。
長谷の大地主であり、地域の重鎮としていろいろな役を担っていたようです。
大河内町史によれば、長谷郵便局の初代局長であったという記録もあります。
山から伐りだされる木材や田んぼのお米が貨幣そのものであったとも言える時代。
小作人であった多くの村民から羨望の眼差しが向けられる存在であったことも想像に難くはありません。
しかし、時代が移り状況が一変します。
戦後の農地改革の結果、農地は小作人のものに。
そこに、コメの価格下落。
さらには山林政策の行き詰まり(原因は諸説あるようですが)と安い輸入材の登場による、山の価値の下落。
”地主”にとっては冬の時代が到来し、その名残は今も続いています。
1960年代なかばに義祖父は他界。
その後、不慮の事故により義叔父が夭折。
娘ふたりはよそへ嫁いでいたため、「蘆田」の姓は途絶えることとなりました。
(聞くところによると、義叔父は農業や山林の活用にも関心を持っていたようです)
時を経て――
義祖父から見て、その地に再び住み始めたのが孫夫婦。(山口夫婦)
この家に思い入れのある義母が、母屋と離れを全面的に改修してくれていたおかげでした。
「住み続けられるかどうか」
当初はまったくの未知数でしたが、曲がりなりにもここで日々を送ることができているのは、義祖父はじめ両家のご先祖の力添えがあるような気がしてなりません。
奇しくも、kajiyanoのオープンと同月に迎えた義祖父の50回忌。
義両親と4人で墓に参り、仏前に花を手向けました。
「この二人をよろしくお願いします」
義母の言葉が胸に沁みました。
今日の一句
笑み漏るる 五十回忌や 実万両
えみもるる ごじゅっかいきや みまんりょう
季語:実万両、万両の実(冬)
故人のエピソードにはじまり、蘆田家の歴史や未来について語るひととき。
「かじやの」に、またひとつ年輪が刻まれました。