冬から自力で取り組んできた、砂利の入れ替えがようやく完成!
何とか形になったものの、「餅は餅屋」だと痛感しました。
何でも経験!?されど・・・。
経緯は以前の記事に書きましたが、砂利の合間から生えてくる雑草を何とかしたい、という思いで踏み切った今回の土木工事(大げさではありません)。
長い目で見れば「あの判断は正しかった」ということになるのでしょうが(なってくれないと困る)、ただ一つ間違えたのは、素人がみずから手を出してしまったことでした。
問題の砂利が敷いてあるのは、ユニックなどの大型機械を入れることが難しい場所。
地元の工務店さんの「これはスコップやなんやで地道にやるしかないから人件費が高うつくで」という言葉を聞いて、自分たちでやれば安上がりかと思ったのが地獄への入り口でした。
薄い砂利をはがし露わになったのは、思った以上に堅い土。
断面が半月状の片手鍬のような道具で「カリカリ、カリカリ」と土を削り、大きな石をより分け、土を裏の畑に運ぶ、というサイクルをロボットのように繰り返すことを余儀なくされました。
土木作業に不慣れな人間がやるのとプロがやるのとでは、作業のスピードも効率も雲泥の差だと思います。最初からプロに頼めば良かったと後悔しました。
単調な労働から「唄」が生まれる。
人手は、私たち夫婦のみ。
一人で行うと非効率なので、「妻が掘る」→「わたしが運ぶ」という分業がいつしか定着してきました。
「二人とも明日は一日フリーだ!」と思うと、次の瞬間には「ジャリ・・・」という呪詛が頭をよぎります。
ときには、雨。ときには、カンカン照りの陽ざし。
始めたらやめる訳にいかないのがこの作業の辛いところで、日が暮れるまで、ひたすら土を削っては運びの繰り返しです。
人間、同じことをひたすら続けていると、だんだんとハイ(やけっぱち)になってきます。何度となく、ふとどちらかが適当なメロディーを口づさみはじめることがありました。
すると、不思議なことに唄やリズムに身をゆだねているひととき、心身の疲れが和らぐのです。
手植え、手摘みの時代に”田植歌”や”茶摘み歌”が生まれた理由が、今なら少しだけ分かる気がします。
今日の一句
手に掬う砂利 空の色 夏はじめ
てにすくう じゃり そらのいろ 夏はじめ
季語:夏はじめ(夏)
駐車場に高く積まれた、入れ替え用の砂利の山。
雨風にさらされて色が沈んでいましたが、バケツでザッとすくってみると、驚くほど淡い青と白が現れました。
そのグラデーションが「まるで空のようだなぁ」なんて呑気なことを思えたのは、汗だくの作業が終わりひと息ついてからでした。