年齢を重ねるごとに。さらには子を授かったことで。
心移ろいつつ、規律ある自然のサイクルに背中をそっと押される気持ちです。
おつかれさま
前回の記事でも書いたとおり、ここ1年ほどは、自分の中に「戸惑い」や「迷い」が生じています。
「2020年」
新型コロナウイルスとの戦いが幕を開けた年。
かたや極私的には、待望の第一子を授かった年。
生も死もひょいと来るもの返り花
有馬朗人さんの句にあるように、十二分の重みをたずさえながらも、それらはたしかに「ひょいと」やってきたかもしれません。
子の誕生は、大げさでなく自分たちの人生を変えました。
年齢的なこともあるとは思うのですが、何か背負っていたものがストンと落ちた感覚もあり・・・。
「紆余曲折あったけど、自分たちなりになんとか頑張ってきたかなぁ」
「おつかれさま」
そんな言葉が口をついて出てきます。
人生が始まったばかりの子どもからすれば、「いやいや、今からやん!」とツッコまざるを得ないでしょう。(実際、心の中でツッコんでいるかも)
でも、それがわたちたち夫婦のリアル。
何もないところから二人でスタートして、これからも二人かなぁとぼんやり考えていた中での、天からの突然のプレゼントだったのだから。
ごめんね。
「次の一歩」はどこに出す?
事業、コワーキングスペースの運営、農業、俳句、テニス・・・ .etc
時間がどれだけあっても足りないような毎日。
充実感に満たされつつも、「子ども」の不在のことはいつも心のどこかにありました。
それが今、目の前に我が子がいて、1日1日をともに過ごしている。
小さな成長を発見するたびに、本当に嬉しい。
幸せこの上ないことだと思います。(世のイクメンパパたちが羨む生活を送っているかもしれません)
一方で、個人として見たときに、自己表現や創作のエネルギーが涸れたことは否めません。
このブログも、もしかしたら何かを埋めていこうとした足跡かもしれないと振り返ることもあります。
けれど、と自問。
「君が生まれてから、お父さんは自分よりも君のために生きることにしたんだ」
物心ついたときに、そう言われて息子は嬉しいだろうか。
子への愛情は抱きつつも、親である前に個人としてアイデンティティを担保し、「自分らしく」暮らし、働く姿を見せるべきではないか。
一人の人間同士として、お互いの人生をリスペクトし合えるような関係性を目指したい。
少しずつ気持ちが変わってきました。
そんなわけで、早朝深夜に事務所にこもるなどして意識的に「孤独」の時間をつくることで、ふたたびインプットや表現に向かう準備をいま整えているところです。
息子が誕生して8ヶ月あまり。
父親1年生の、心の航海は続きます。
今日の一句
鶯の子の見つけたる一音目
うぐいすのこのみつけたる いちおんめ
季語:鶯(春) 既発表句
コロナ禍初期、もてあますような時間の中で詠んだ思い入れある句。
「ホ〜ホケキョ」の最初の「ホ」。
”あたりまえ”のあの音程を、やっとのことで捉える鶯ベビー。
微笑ましいと思いつつ、自分は、息子に伝えるべき「一音目」をちゃんと持っているのだろうかと自問します。