はじまりの音色
年齢を重ねるごとに。さらには子を授かったことで。
規律ある自然のサイクルに背中をそっと押される気持ちです。
※2021年5月5日の記事を解説版に書き換えました。
前回の記事でも書いたとおり、ここ1年ほどは、自分の中に「戸惑い」や「迷い」が生じています。
「2020年」
新型コロナウイルスとの戦いが幕を開けた年。
かたや極私的には、待望の第一子を授かった年。
生も死もひょいと来るもの返り花
有馬朗人さんの句にあるように、十二分の重みをたずさえながらも、それらはたしかに「ひょいと」やってきたかもしれません。
子の誕生は、大げさでなく自分たちの人生を変えました。
年齢的なこともあるとは思うのですが、何か背負っていたものがストンと落ちた感覚もあり
「紆余曲折あったけど、自分たちなりになんとか頑張ってきたかなぁ」
「おつかれさま」
そんな言葉が口をついて出てきます。
人生が始まったばかりの子どもからすれば、「いやいや、今からやん!」とツッコまざるを得ないでしょう。(実際、心の中でツッコんでいるかも)
でも、それがわたちたち夫婦のリアル。
何もないところから二人でスタートして、これからも二人かなぁとぼんやり考えていた中での、神さまの突然のプレゼントだった。

「次の一歩」はどこに出す?
事業、コワーキングスペースの運営、農業、俳句、テニス・・・ .etc
時間がどれだけあっても足りないような毎日。
充実感に満たされつつも、「子ども」の不在のことはいつも心のどこかにありました。
それが今、目の前に我が子がいて、1日1日をともに過ごしている。
小さな成長を発見するたびに、本当に嬉しい。
幸せこの上ないことだと思います。
一方で、個人として見たときに、自己表現や創作のエネルギーが涸れたことは否めない。このブログも、もしかしたら何かを埋めていこうとした足跡かもしれないと振り返ることもあります。
けれど、と自問。
「君が生まれてから、お父さんは自分よりも君のために生きることにしたんだ」
物心ついたときに、そう言われて息子は嬉しいだろうか。
子への愛情は抱きつつも、親である前に個人としてアイデンティティを担保し、「自分らしく」暮らし、働く姿を見せるべきではないか。
一人の人間同士として、お互いの人生をリスペクトし合えるような関係性を目指すには。
少しずつ気持ちが変わってきました。
そんなわけで、早朝深夜に事務所にこもるなどして意識的に「孤独」の時間をつくることで、ふたたびインプットや表現に向かう準備をいま整えているところ。
息子が誕生して8ヶ月あまり。
父親1年生の、心の航海は続きます。
思考と表現の軌跡
コロナ禍初期、もてあますような時間の中で詠んだ思い入れある句。
世の中は止まっていたけど、自然のサイクルは止まらない。
ぼーっとしていたら、山の茂みからぎこちない鳴き声が聞こえてきた。
「ホ〜ホケキョ」の最初の「ホ」。
”あたりまえ”のあの音程を、やっとのことで捉える鶯ベビー。
「これって、どう表現すればいいんだ?」
笹鳴きということばはあるけど、もっとピンポイントでこの瞬間を切り取りたい。
バンドの演奏を思い浮かべて、「第一音」→「一音目」とした。
表記として「一音め」も検討したけれど、どうしてもしっくりこなかった。「こやつめ〜!」の「め」にも見えるから?成立しないことはないのだろうけど、立ち止まってほしくないところで立ち止まり、余韻を濁してしまうかもしれないのなら選ぶべきではないかと考えた。
その光景を微笑ましく思い返しつつ、自分は、この社会で生きていく「一音目」を息子にちゃんと教え、伝えられているだろうかと今も自問する。
新しいことに挑戦するとき、だれもがその道の初心者として、最初の一音を探す。
大人も、子どもも、その音程は同じかもしれない。
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鶯の子の見つけたる一音目
うぐいすのこのみつけたる いちおんめ
季語:鶯(春) 既発表句
