”メメント・モリ”ではないけれど。
※書き下ろし
田んぼの草取り作業中、ジリジリと照りつける日光と泥の熱気に包まれ、文字どおり「死にそう」になったことがあります。
逃げ場のない炎天下。全身から汗が噴き出し、思考すら朦朧としてくるような泥の中。
あの身体的な記憶から生まれた一句と、その推敲の記録です。
思考と表現の軌跡① 死を意識した瞬間に浮かんだ「土に還る」
田舎で暮らしていると、死が身近に感じられます。
なぜか窓ガラスのサッシでミイラ化しがちなカエル。
一夜、事務所を飛び回ったのであろう、つまんでも反応しない蛾。
あるいは、コンポストに投げ込み、合うはずないのに目が合った感じがする骨の魚。
いずれも、干からび、崩れ、一部は空気中に散り、残ったものは土の一部となります。
足を取られ、ヘトヘトになりながら田んぼを歩き回っていて、「もうダメだ」と畦に腰をついたとき、目線が下がり、土の存在をいつも以上に近く感じました。
「いずれは、土に還る」
生命体として、物体として、逃れられないこの運命を、直視していたら辛くて仕方がない。
だから、僕たちは明日も命があるということを前提に、長期スパンで人生の設計もする。
国がNISA制度を用意する時代。
「長期投資すれば負けない」
「20年経てば期待リターンは〇〇%・・・」と、みんなが真顔で語るようになりました。
日本にやってきた投資ブームは、それまで投資に関心がなかった層まで「年月は金を増やすためのリソースだ」という意識が植え付けられ、視線が上ずることで「目の前の1日」がやや軽視されてはいないか?
なんていうことも思うのです。
思考と表現の軌跡② 大いなる者の園
脱線してしまいましたが、「土に還る」だけでは当然句になりません。
「人生は冥土までの暇つぶし」ではないけれど、ゴールだけが決まっていて、道筋の違うレースを僕たちは生きているのかもしない。
そう考えたときに、日夜もがき、思考し、苦しむ人間の営みのすべてが、大きな手のひらの上における思い思いの踊りのようにも見えてきました。
(危険な状態にあったことをお察しください)
「この世は全てデザインされていて、自分もその一部である」
人々を惹きつけてやまない、ある種のロマンシズムを孕んだこのシナリオ。
映画『トゥルーマン・ショー』のエンディングでは、主人公のジムキャリーが、自分の人生全てがTVショーの素材だったことに気づいてしまいます。
でも僕は、もしそうだったとしても、悪意ではなく愛をもって、「大いなる者」が人類のありのままを見守ってくれている世界を想いたい。
世界の始まりと終わりまで司る、神々あそぶ園から吹き下ろされるのは、、
「春風」しかない!
即決したのですが、共感していただけるでしょうか?
肉体的に疲れきって意識が朦朧となった人間の1サンプルとして。
リアリティと妄想がないまぜになり、季節外れの句が生まれた話でした。
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春風に遊べよ土に還るまで
はるかぜに あそべよ つちにかえるまで
季語:春風(春)
