”人生の夏”の終わり。
※書き下ろし
旅行先で、息子とぼーっと見ていた景色。次男が生まれる前に、泊まりがけで長男と出かけた先の公園で、ベンチに腰掛けていたときのこと。
地元の中学生くらいの子どもたちが、数名でバスケットボールをしていました。
歓声を上げて攻守が切り替わり、放たれたロングシュート。
息子と目で追いかけた先は・・・惜しくもリング。
「ガン!」
みどり生い茂る公園に無情な音が響き、ゴールボードとオレンジ色のリングはぐらりと揺れていました。
当時は30代の終わり。人生80年を四季に置き換えると、まさに「夏の終わり」。
100年で数える人も最近は多いけど、僕は80でカウントダウンしています。
公園を駆け回った少年時代の夏の思い出と、いま目の前にある、息子と過ごす夏の一日。
あっという間に過ぎていく躍動の季節は、振り返るとぎゅっと短く凝縮されたものに感じられるのだろうと思います。
思考と表現の軌跡① 「バスケットゴール」は略せない。
句の風格を保とうと思うと、「バスケ」と略するのは厳しい。
「リング」だけだと格闘技を思い浮かべるかもしれない。
やはりここは「バスケットゴール」とストレートに表現するしかなさそうです。
8音。中七(五七五のまんなか)に置くにも、余ります。
それなら素直に頭に置いてみて、考えてみよう。
そんな創作パターンでした。
思考と表現の軌跡② メタファーとしての俳句
「何を詠みたいんだろう」
「なんのためにこんなに苦しんでいるんだろう」
俳句を作っていて、ふと我に返ることはよくあります。
そもそも、仕事の依頼や家庭料理などと違い
誰からも「俳句を作って」と作ってと頼まれていません。
素材を自分で仕入れてきて、問いを自分で立てて、どう料理するかいろいろやってみて、満足がいけば次の素材に移る。そして、それだけ少なからぬ時間を費やし手をかけても、お腹が満たされるわけでもなく1円も生まない。
資本主義や合理主義の立場からみれば、無駄でしかないでしょう。
「なぜ俳句をつくるのか?」
ひとつの答えは、自分が生きた証を刻むこと。
その結晶が、時間や空間を超えて誰かに受け取ってもらえるかもしれないという淡い期待を込めて。
ぼくは表題句に、ひとりの少年の30代までのものがたりを凝縮させたつもりです。
ボールを受け取ってくれる人はいるでしょうか。
archive
バスケットゴールの揺れて止まる夏
バスケットゴールのゆれて とまるなつ
季語:夏(夏)
