高まる不安と、”日常”の破綻。
一日一日を、大切に考えていかねばと思います。
恐怖と不安の日々と、その先。
新型コロナウイルスの影響が深刻化。
神河町内でも、さまざまな分野でイベントの中止や延期が相次いでいます。
kajiyanoにおいても、毎月恒例のくらしとしごと(3/14)は中止。
コワーキングスペース自体の営業も、厳戒態勢の3月中旬まではいったんクローズすることにしました。
苦境にあればこそ、命熱し。
2020年2月22日。
今思えばイベントを開催するにギリギリのタイミングだったかもしれませんが、姫路文学館で開催された「永田耕衣展」の一環で企画された高橋睦郎氏の記念講演を拝聴する機会を得ました。
生誕120年記念 俳人永田耕衣展
枯草の大孤独居士ここに居る この辞世の句を残して97歳の大往生を遂げた俳人永田耕衣は、現代俳句において、あらゆる意味で先駆者であったとされ、没後20年以上を経て、ますますその存在感を強くしています。 …
高橋睦郎さんのことを知ったのは、故・飯田龍太氏や三橋敏雄さんら豪華俳人による句会の熱気を収録した書籍『俳句という遊び―句会の空間』 (岩波新書 小林 恭二著)。
俳句という遊び – 岩波書店
春爛漫の甲州に八人の俳人が会した.飯田龍太,三橋敏雄,安井浩司,高橋睦郎,坪内稔典,小澤實,田中裕明,岸本尚毅――.当代一流の技量を有する俳人たちが,流派を超えて句会を開く.これはその句会録である.うちとけた中にある厳しい雰囲気,俳句を媒介にした上質なコミュニケーション,この「遊び」こそ俳句の醍醐味なのである.
名句「虫鳥のくるしき春を無為(なにもせず)」の生まれた句会です。
たしか自らを「名作主義」と評するくだりも。(だれかに貸してしまったのか手元に見当たりません・・)
講演の日に戻ります。
前髪を長めに残した白髪にあごヒゲと金ぶちのメガネ。
力が抜けつつもこなれたファッションに身を包んだ高橋氏が登場すると、会場の空気がピンと張り詰めます。
写真撮影OKだったのか確認していなかったので写真はありません。
この日のテーマは「出会いの絶景」。
耕衣さんは、どんな相手であれ、人のことを悪く言うことはなかったそうです。
具体的な俳人の名前も上がっていましたが、ここでは伏せます(笑)
若かりし頃の高橋睦郎さんのように、耕衣さんを慕い、はるばる会いに来た人たちを含め、すべての人との出会いを、「絶景」と捉えていたのだといいます。
好きも嫌いも超越して、出会いのひとつひとつを愛おしく捉えること。
ひとつ目標ができました。
耕衣さんの句にしばしば出てくる茄子の話も印象的でした。
高橋さん曰く「毎年茄子を育てて、採りもせず、そのまま腐っていくさまを眺めていた」
腐りゆくさまをも、愛していたのでしょうか。
こうした”尋常でない”エピソードが次々と披露され、(自決を控えた三島由紀夫との会食で死をほのめかされた話など、高橋さんご自身の交友録やエピソードの濃度も相当なものですが)自分の卑小なることをただただ実感するばかりでした・・・。
心に残ったのが、高橋さんの耕衣評。
「人間、付き合っていくうちにたいていは嫌なところが出てくるものだけど、耕衣さんにはひとつもなかった」
「構えがない人だった」
「これまでの人生を幻と見る。一日一日を大切に生きる。そんな気持ちを持って生きていた人だったのだろうと思う」
枯草や住居(すまい)無くんば命熱し
阪神淡路大震災で倒壊した自宅、通称「田荷軒」を失いつつも、耕衣が詠んだ句。
氏の講演を思い返しながら味わうと、この状況下において、どこか気骨がたしかになる気がします。
今日の一句
たましひのひとつひとつに春夜かな
たましいの ひとつひとつに しゅんやかな
季語:春夜・春の夜(春)
生者の魂も死者の魂も、すべてが今に存在している、という耕衣さんの思想。
直観できる人の眼には、無数の魂が煌々と灯っているのかもしれません。