それは「祈り」に似て。
今年も稲刈りの季節がやってきた!
所属するコミュニティが多いと、悲しいかな1年のはじめにカレンダーに大量の(仮)予定が書き込まれます。
年始のルーティンでもあります。妻に感謝。
天候に左右されることはあっても、米づくりのスケジュールはそう大きく変わりません。
かつては、5月の田植えは「消防操法大会」と。9月の稲刈りは地域総出の長谷小運動会と同じ月。
町の操法大会が中止になった今年からは、5月にじっくり田植え準備(もちろん仕事もしてます)。
「暑さ対策で運動会が6月に移動したため、9月も稲刈り関連で時間を割きやすくなった」
と言いたいところなのですが、昨年から9月下旬にはテニスの姫路市民大会に出場しており、こちらもスケジュールの変動要素あり。綱渡りの調整をしています。
実は、稲刈りシーズンには長男の誕生日も…。
自分で忙しくしているという指摘に反論の余地はありません。
今年は、殊に天候に振り回されました。
年中流れ続ける側溝の水が初めて尽きかけた8月の日照り続き。
そこからの、晴れの日を探すのが難しいほどの雨がちな9月。
「逆であれば・・・」と全農家が思ったに違いない2026年の秋。
覚悟したほどのトラブルはなく、本日無事に刈り終えました。そして、気づいたら木曜でした。

先日、手刈りしていたときのメモから作った表題句があったので、それにからめて…。
思考と表現の軌跡① |稲を刈るのは誰?
「稲を刈る」
こう聞くと、多くの人の脳内にはコンバインが浮かぶのではないでしょうか?
と書いた瞬間、「逆に、馴染みのない人は手刈りを思い浮かべる?」と疑問がわき、逆にわからなくなりました。(こういうプロセスも読者のみなさんと共有したい)

作者の意図は、手刈り。
「複数人で稲を手刈りするなんて、今どきある?」と、フィクション扱いされるかもしれません。
しかし、これは我が家のリアル。事情あって、稲刈りの時期にはたくさんの人にサポートしてもらっています。
妻はもちろんのこと、弟、家族、友人知人。タイミング悪く?この時期に体が空いている人は、刈り取りの事前準備、当日のサポート、袋詰めされた米の積み下ろしなど、さまざまなパートに巻き込まれます。一時滞在中のカナダ人に田植え前の準備を手伝ってもらったこともありました。いろんな人に迷惑を掛け、助けてもらいながら生きております…。
事前の作業は、基本的には「四隅刈り(よすみがり)」。
構造的にコンバインが刈りづらい部分を、先に刈っておく要領です。
最近は、手刈りはせず、最後に逆順で回り、それでも残った分を作業パートナーが手刈りするやり方が増えてきている(一般的?)かもしれません。
それほど時間は掛かりません。
問題は、次のひと仕事。
近年は、近場で増殖しているサルのイネ被害がひどくなっています。
実が熟してくると、手でこそぎ取って食べるんです(!)
それだけならまだ許せるのですが(と言いながら許せていない)、じゅうたんのように田んぼを駆け回り、一面稲を倒したり茎をポキッと折ってしまったりで、気づいたときには見るも無惨な状態に。
昨年あたりから被害が甚大化し、コンバインでは難しいと判断した箇所は、倒れた稲を起こしながら手刈りするという機械化時代には考えられない作業を黙々と行っています。
炎天下の農作業で倒れそうになったときのエピソードにも書きましたが、こういう肉体的・精神的に追い込まれるときは、ふっとアイデアが浮かぶことがあります。
この「延々と続く作業、それに没頭するわたしたち」を句材にしようと思い、泥だらけの手袋を外してスマホにメモしました。
思考と表現の軌跡② |無心に、何かを追うように。
シルクロード。
あるいは、VIVANTの舞台のような砂漠。
その先に何があるのか。知らされてはいても見てはいない。
因果関係が複雑にからみあう農業は「流派」を生みやすく宗教的なところがあるとよく言われますが、農に時間を人生の少なからぬ時間を捧げる人々にはまさしく「祈り」に似た気持ちがあるのではないかと思いました。
当然、「祈り」からスタートしたのですが、たどり着いたのが「信徒」。
宗教の話はしても、まず会話に出てくることはない単語。これは出そうで出ませんでした。
エヴァンゲリオンは「使徒」でしたね。
シント。
ぼくの脳は、無意識下でこの単語に脳のリソースを割いていたようです。
頭の中は、数珠つなぎ。その回路を保つためにも睡眠は大事だと逆に証明するチャレンジが本人曰くは”無事”終わったようですが、、とタイムリーな話題にも触れておきます。
ちなみにぼくは、自慢ではありませんが、この年齢でも8時間、できれば10時間睡眠の人間です。大谷翔平さんはもちろん、「寝ている時間は寿命が伸びる」と妙な説得力で自説を展開していた水木しげる氏など、ロングスリーパーに市民権と勇気を与えてくれる存在に感謝します。
まるで終わりがないかのように。17音に永遠を閉じ込める。
すぐ脱線する。稲刈りの話でした。
「ザッ、ザッ、ザッ」
はじめて鎌を持つ人も、だんだんリズミカルに。
経験者は、呼吸をするように。
実際には休憩も挟むしおしゃべりもするけど、「信徒の列をなすが如(ごと)」と切り取ることで、信じる者たちの行進が、無心で延々と続いていくかのように感じられる効果が生まれていたらいいなと思っています。
俳句で「〇〇のよう」と表現するとき、「〜のやうに」あるいは「〜するごとく(如く)」などと書きます。「如」と漢字で止めるのは、やや古風な表記です。日本人の米づくりの歴史は長い。江戸末期くらいの人も詠み得た取り合わせかと思い、あえてこう表記してみました。
17音という極小の文芸、アートだからこそ、そこに「永遠」の仕掛けを閉じ込めたい。
そんなことも想いながら、日々作品を編んでいます。
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稲刈るや信徒の列をなすが如
いねかるや しんとのれつをなすがごと
季語:稲刈り、稲刈る(秋)
