まるで呼吸をするように。
村の一年は、自然とともにあります。
自然のサイクルと生きる。
「晴耕雨読」。
晴れれば土と向き合い、雨が降れば学ぶ。
ここで暮らすまでは字面通りにしか受け取れませんでしたが、だんだんと味わい深く感じるようになってきました。
お金も時間も有り余るようになったら何をするか。
美食や酒三昧?
元手を惜しまないギャンブル?
いろんな誘惑に振り回されながらも、案外、土を触るようになったり、自分の中にインプットすること=「学ぶ」ことに関心が移ってきたりするような気がします。
大御所になっても好奇心や探究心が衰える気配のないタモリや井上陽水、所ジョージなどはそんな世界観の象徴かもしれません。
まったく同じ景色も、歩んできた道のりによって見え方が変わります。
思い出すのが、どこかで聞いた億万長者と釣り人の小咄。
億万長者が描く究極の幸せは、メキシコの田舎町で日々を過ごす漁師の余暇の過ごし方と同じだったというのがそのオチ。
「じゃあ、最初からそのつもりで生きよう」
という受け取り方も、もちろんあると思います。
ただ、煩悩は恐ろしく・・・
わたしの場合は、コーヒーに落としたミルクのように渦巻く欲が、その達観へと至る道を絶妙に妨げています。
↓こんな解釈も。
例えば、お米づくりにおける肌感覚の暦。
「土用の畦越し水」(夏の土用は、畦から溢れるぐらいたっぷりと水をやるのが良い)
「地蔵盆が過ぎたら水を落とす」(毎年23日が地蔵盆。収穫へのカウントダウンが始まる)
ゆっくりと、確かに、自然のリズムと共生する暮らし。
「こんな風に毎日を過ごせたらどんなにか・・・」
羨ましく感じることしばしばですが、その生活があるのは若い時からの積み重ねの賜物。
行き着くところは仮に同じでも、きっとそこへ向かう道のりに意味があるのだと思います。
生き方のモデルに恵まれた環境に感謝しながら、若人なりの試行錯誤を続けていきたいと思います。
今日の一句
こほろぎの 翅ふるわせる 土の上
こほろぎの はねふるわせる つちのうえ
季語:蟋蟀(秋)
この時期、畑仕事をしていると、草の影からひょこんとコオロギが現れます。
小刻みに羽を振動させるさまは、空気を通して自分の存在を伝えるようでもあります。