若者たちの羽根
※新規作成記事
10年ほど東京にいた。
ミュージシャンに憧れ、どうしても東京に行きたくて、親を説得するために高3の夏に一念発起して大学進学を選んだ。あとがないという焦りで寿命を先食いするような追い込み方を自分なりにはしたつもりだが、最後は先祖たちが吉風を送ってくれて、思いもよらず早稲田大学の教育学部に滑り込んだ。
この時からぼくの人生は「鶏口となるも牛後となるなかれ」の逆をゆき、牛後の歩みがしばらく続くことになる。
つまり、集団の後方から肩越しに世界を見る役割だ。
地元や周りの評価と反比例して辛い日々ではあったけど、大学・大学院進学、そして新卒扱いでの広告代理店就職まで、大事な場面で実力以上の結果がついてきて「これは自分自身の力なわけがない」と人生の早い段階で気づけたのは良かったと思っている。
思考と表現の軌跡①
東京で詠んだ句ではない。
大学院では近世文学を専攻し、中嶋研究室で面倒を見ていただき井原西鶴の小説と俳諧を研究テーマにした。今や俳壇の顔である某氏と同じ研究室にいたにも関わらず、俳句の実作などしたことがなかった。なんとももったいないことだけど、ぼくの経歴を知り、実作の世界に誘ってくれた村のお姉さまたちに今も感謝している。
ちなみに東京での学生時代には、俳句だけでなく音楽や広告のジャンルでも、のちに第一線で活躍することになる人たちと出会っている。
自分自身はいずれも大成していないけれど、一流の背中をずっと見てきて「上には上がいる」ということを腹の底から理解できたのは幸運だったと思う。親方の背中から学ぶ弟子のように、こうした経験は30代以降の自分の人生形成に少なからず影響を与えている気がする。
少し脱線してしまったが、着想はもちろんというか「マフラー」だ。
お世話になっている気鋭の若手俳人(この出会いもまた、ぼくの人生のパターンともいえる)からお誘いいただき、県内のとある俳句大会に参加した際に生まれた。
車を降り会場へ向かう道中、なにげなく目に入った自転車の女性。首には白いマフラー。
当日出句する作品は、事前には作っていなかった。(本来はそれが正しい形だと思うけど)
「マフラーでいこう」
それだけ決めて、妻のいう俳句モード(幽体離脱モード?)に入った。
脳裏に浮かんだのは、渋谷の街。
何度ハチ公前に集合し、スクランブル交差点を渡ったかわからない。
道玄坂方面のクラブ。ふらふらの頭で帰りに寄るラーメン屋。
ハロウィンの喧騒。
「憧れの東京」はいつしか日常になり、もはや人が多いとも思わなくなっていた。だけど引き潮のように常にどこか不安や焦燥感が漂っていて、それを紛らわせるように雑踏の一部となってあちこちに行き、人と会い、消費し、心を無理やりに満たそうとしていたのかもしれない。
映画を観るように、人ごみにぶつからないよう歩く当時の姿を、少しずつ上昇するドローンのような視点で眺めていた。あっという間に人は米粒大になり、もはや渋谷の街に自分を見つけることはできなかった。
思考と表現の軌跡②
会場に着き、作句に入る。
まっさきに浮かんだのは「雑踏」。
自分のなかの何かを守るように厚手のマフラーを首に巻き、伏し目がちに都会の人ごみの中を歩く青年。あるいは少女。
「雑踏をマフラー〇〇」「雑踏に〇〇マフラー」・・・などと試行してみたがうまくいかない。
今度はマフラーを上五に置いてみる。
「マフラーを・・・」
そうすると、渋谷のドトールで席につき(スタバではないしルノアールでもない)、かばんを横に置いてマフラーを外す青年の姿がありありと浮かんできた。
羽根がもげた鳥のように、洋服に身を包みながらも生身のそのからだは頼りなげに見えて
どうしてか少し涙が出そうになった。
「雑踏の贄(にえ)となる」
哀れみと共感がないまぜになって、気づけばこの表現が降りてきていた。
問題は中七だ。
問い:マフラーを〇〇(2音)雑踏の贄(にえ)となる
〇〇にふさわしい語を答えよ。
「取り」「とり」
弱い。
「脱ぎ・・・脱ぎはおかしいか」
準備万端の面持ちの先輩俳人に、こっそり聞いた。やはりそれはNG。
出句の時間が迫る。
素直に入ってくるのは「マフラーを外す」。
4音の「雑踏」を捨てた。
やや抽象的で解像度が下がるけど、「都会の贄となる」の形で提出することに決めた。
迎えた結果発表。
実力者の先輩俳人が複数の選者から特選や高評価を受ける中、ある選者がマフラーの句を特選に取ってくださった。
「青年でしょうか。都会で不安や孤独を抱える姿が見える」。
東京でもがいていた20代の自分の背中に、そっと手を置いてもらった気がした。
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マフラーを外し都会の贄となる
