究極のメンタルスポーツに魅せられて。
テニスから逃げた過去
けっして運動神経が良いほうではありませんでした。
幼稚園のマラソン大会で、大声援のもとゴールしたらダントツの最下位だった少年です。
かと言って、特別勉強ができたわけでもないけど、どちらかといえば運動会のシーズンは陰に隠れて(当日も行きたくなかった)テストで良いところを見せたいタイプだったように思います。

一方で、両親の馴れ初めはテニスクラブ。松岡修造や伊達公子、沢松奈生子など日本人選手が世界で活躍し、テニスブームの時代でした。
親の影響を受けてぼくも弟もジュニアスクールに通いはじめ、スポンジボールと子ども用のラケットで練習するように。
所属は書写のクラブで、加古川の系列クラブともときどき交流。自分は早々にドロップアウトしてしまったのですが、当時の仲間たちはその後も高校や大学で技術を磨き、いま姫路市民大会のS級〜A級に君臨しています。
テニスコミュニティで彼らの名前を出すと、「え!?あの〇〇さんと!?」という反応が返ってきます。ここでも、常に”牛後”となる自分の奇運も感じるし、「虎の威を借る狐」みたいになるのも、心中複雑なところです。
遠回りして、ふたたび戻るも…。
再三お話しているように、中学以降、学生時代には自分の多くを音楽やサブカルチャー、文筆に捧げてきました。
つまり、テニスからは離れました。
高校・大学に進学してからも部活動やサークルでテニスを続けていた弟、ジュニア時代の仲間の活躍の噂を耳にするたび、リスペクトや羨ましさもにじみつつ、自分とはもう関係のない世界だと思っていました。
その後、紆余曲折を経て帰郷し、たどり着いたのはさらに奥地の神河。
そこにはなんと!自宅から10分ほどの場所に「はにおか運動公園」という信じられないほど恵まれたテニスコートがあったのです。
古いバボラのラケットを携えて地元のテニスクラブに通い始め、最初はサーブを空振りするような状態でしたが、少しずつ迷惑をかけない程度のプレーはできるように。徐々に出会いが広がり、同世代のテニス仲間もできました。
誘われてハイレベルな練習会に参加して、「そのレベルの人たちと練習している」ことに変な自信や高揚感も持つように。
だけど、自分がいちばん分かっていました。「上手い人と打つと自分が上手くなった気がするけど、それは錯覚だ」ということに。彼らは技術があるからクリーンな球を供給してくれて、そのボールの勢いを利用して返しているだけだったのです。

コーチとの出会いと子弟関係
そんな中、いつもガット張りをお願いしていてコーチ業も営まれているFさんに、あるきっかけでプレーを見てもらうことに。
「・・・これじゃあかんわ。教えたろか?」
そこから、基礎からやり直しのマンツーマンレッスンが始まりました。
周りからは「それだけ打ててるんだから、何もそこまで」とも言われましたが、レッスンを重ねるたびに、いかに自己流でおかしな癖がついていたかを実感するように。教わるからには…と、ある意味で”信徒”となり、矯正プログラムのため半年間にわたる練習参加禁止令が出たり打ち方の制限も出たりで、それまでいっしょに練習していた仲間とは以来距離ができてしまいました。
この孤独すらもメンタルの鍛錬だとおっしゃっていました。今は少しわかる
当時は30代の終盤。
「頭を使え!頭を!」
「同じミスを2回するな!」
この年齢にして中高生のような厳しい指導を受け続け、トニ・ナダルとラファの関係のような絶対的な子弟関係のもと、約3年の月日が流れました。
30代でのテニス再開以来、市民大会など公式の試合に出場することは避けていました。自分の実力が可視化されるのが怖かったからかもしれません。
でも、反復練習を重ねて下地ができてきた感覚もあり、破壊と再生から誕生した自分の新しいスタイルでどこまでできるか挑戦したい気持ちが生まれてきました。
おそるおそる、
「今度、豊岡のシングルス大会に出ようと思うんです」と申し出たら、コーチは何も言いませんでした。

弱肉強食の世界へ。豊岡篇
2024年秋の豊岡。ジュニア以来約30年ぶりの試合は、忘れもしない、散々たるものでした。身体中の筋肉が硬直し、膝がガクガク。4連続ダブルフォルトでゲームを献上するなど、思い出したくもないけど内容は脳裏に焼きついています。
けれど予選でもう2試合戦う中で少しずつ緊張が解け、1勝2敗で予選リーグは敗退したものの、コンソレ(予選リーグ敗退者トーナメント)で思いがけず優勝。
ふだんあまり褒めないコーチも喜んでくれました。
翌年夏も豊岡のシングルス大会CD級に出場し、予選1勝1敗の得失差で再びコンソレに回り再び優勝。コンソレ連覇?というレアな経験を得ました。
2026夏は、初めて予選を突破してCD級本戦で3位。
豊岡では少し顔見知りもでき、1コマずつ前進している実感があります。これはこれで毎回プレッシャーなんですけど

弱肉強食の世界へ。姫路篇
一方で、比べてエントリー数がはるかに多く、全国的にもレベルが高いと言われているのが「姫路市民大会」。
初参加者はC級からスタート。トーナメントが2つに分かれており、それぞれのベスト8に残ると(4回戦勝利)B級に昇格します。
2026年のC級エントリー数は計175名。うち16名が昇格する計算です。
姫路市民のC級は魔境と言われており、ドロー運や体調の問題などで前年に勝ち上がれなかった実力者から本当のビギナーまでがカオス状態になっていて、強敵を引かず4回ストレートで勝ち上がるのは若干の運も必要になってきます。
予選はないので負けたら終わり。前年上がりそびれた強者とどこかで当たると上がれない。そのループで、渋滞が起こっているのです。
昨年の初挑戦は、2回戦負け。
今年は、3回戦でシード相手に力負け。(ベスト32)
番狂せで2週目に残りたかったけど、勝負所での差を感じました。
「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし」
試合に出るようになって、全くそのとおりだと感じます。「勝てそうだったのに、勝てなかった」という試合は今のところ一つもありません。テニスは1ポイントの積み重ね。サービスゲーム、リターンゲームそれぞれ構造的な優劣が、最終的なゲームカウントに収斂します。
負けるときは、負けるべくして負けている。それが次の練習強化メニューにつながっていきます。

日常から離れたフィールドを持つ。
テニスという競技を難しく、また魅力的にしているのが「究極のメンタルスポーツ」であるという点です。
「いつもなら打てるショットが振り切れない」
「プレッシャーが掛かる場面にになると、サーブが入らない」
プロでもこういうことが起こるそうなので、われわれアマチュアは言うまでもありません。
でも、このメンタルの揺れや駆け引きも含めてシングルスは面白い。
もうひとつが、「社会的な属性や素性関係なく、プレーで語り合えること」。
ぼくはフリーで出場しています。だから、試合の待ち時間も弁当を食べるときも基本一人と思っているけど、今回の市民大会では対戦をきっかけに対戦相手がシード選手との次戦を観戦してくれたり、他にも関心を持ってくれる人が現れたりして、試合後には輪に加わって情報交換をさせてもらう場面も。
2週目入りを果たしたほぼ同い年のプレーヤーが「自分のレベル的には今がいちばん高いと思ってますよ」とさらっと言ったときに、まだまだ奥が深いし山は高いと思いました。
「〇〇さんいっしょに練習している人」やクラブ名ではなくて、カジヤノの山口でもなく、息子たちの父でもなく、1人のテニスプレーヤーとして認知してもらえること。大げさだけど、これがいま、他には置き代えができない喜びになっています。
グローバルなスポーツであり、海外の人と共通の話題にできるのもいいです
小さな子どもたちがいるのにこんなことを許してくれる家族への感謝を忘れず、引き続きこの愛すべきスポーツと向き合っていきたいと思います。

思考と表現の軌跡① |ダブルフォルトの痛みを刻みたい。
テニスのショットメイクは、基本的に再現性がありません。
相手のボールの球質、スピード、回転量、気温、風。
影響する要素が複雑にからみあい、「同じボールは二度とない」からです。
その中で、唯一自分でコントロールできるのがサーブ。
そのサーブが2本続けて入らないなんて、原因は自分のメンタルに他なりません。
「ここで、またやってしまうのか…?」
あのコート上の孤独と恐怖。
試合の帰り道に残した俳句メモを元に、推敲を開始しました。
思考と表現の軌跡② |無慈悲な「音」で表現するか、内面へ向かうか。
ネットの白帯に「バチッ」とボールがぶつかるフォルト。
あるいは、すっぽ抜けたようにサービスラインを越えるロングのフォルト。
テニス経験者なら、嫌というほど経験しているあの辛さ。
実景から「天高し」という季語は決めていたのですが、中七下五が難航。
「ダブルフォルトの帯の音」
素直に置くとこうなったのですが、「帯」でネットの白帯と伝わるかどうか。
また、「ダブルフォルト」と明確に言ってしまうことによる詩情の余地が気になりました。
迷ったら、捨てる。
俳句の鉄則です。
音から離れて、自分の身体なのに言うことを聞かず、半分震える手でトスを上げ直すあの感覚にフォーカスすることにしました。
「トス上げ直す手の動き」
↓
「トス受けとむる掌(たなごころ=てのひら)」
すっと落ち着く感じがしました。
天孫が降りてきそうな秋晴れの大きな空と、人間の弱さに満ちた手のひらの感触。
その対比を織りなしてみたつもりですが、読者のみなさんにはどのように伝わっているでしょうか?

archive
天高しトス受け止むる掌
てんたかし トスうけとむる たなごころ
季語:天高し(秋)
