自分の役割と向き合いながら。
田舎に来たが仕事はない。時間はたっぷりある。
20代の後半にしてそんな生活を経験しました。
定職に就く人、あるいはじゅうぶんな蓄えをもって一線を退き悠々自適に暮らす人。
どちらもが遠い存在で羨ましく、社会の閑職のような生活に、コンプレックスは覚えても肯定感は持てませんでした。
そこから、まずは地域の一員になることを目指し、分からないことだらけながら戸主として年間すべての村行事に参加。
これがぼくの基準、期待値になってしまい、翌年以降現在に至るまで欠席すると「山口くん、今日は来ていないんか」というキャラクターになってしまいました。まるで、試合で獲得したポイントが1年で失効するランキングシステムにおいて、常に前年の自分の成績と戦わないといけないテニスプロのようです。
…まぁそれは良く言い過ぎとして、以降は「お金になること半分、ならないこと半分」となんとなく自分で設定した人生のコンセプトどおり、両者少しずつ役割が増え、ここが重要なのですが、減ることはほとんどなく維持されています。
もちろん仕事には波があり、クライアントごとにタイミングもあるので年ごとのかかわりの濃淡は生まれますが、一度出会ったお客さんとの関係が切れるということはあまり経験していません。
かたや、プライベートも、基本的には増える一方です。現在でいうと地域の一員としての村のしごと、若手世代としての役割(消防団・商工会青年部)、町の仕事(農業委員)といろんなレイヤーがあります。
そこに、自ら詰め込み、諦めたくはないライフワークの俳句とテニス。
「欲張りすぎや」
という妻の指摘には、ぐうの音も出ません。
個体として、父として。
そこに、独自のレイヤーで存在するのが、こどもたちとの関わり。
「自分をいちばん必要としているのは誰か」
少なくとも今は、間違いなく「息子たち」。
だとしたら、自由になる時間はできるだけ彼らと過ごすべきか?
インプットや研鑽を積んで、自分のパフォーマンスを高めるべきか?(背中を見せるという大義名分のもと)
あるいは両者をハイブリッドする過ごし方がある?
個体としてはそれなりに自分の特性や限界は把握していたつもりだったけど、こどもたちを授かって以来、生活の方程式は複雑になりました。
それでも、気づけば来年から長男は小学生。夫婦の時間も以前よりは持てるように。
地に足をつけ、家族の未来に向けて道筋をつくりながらも、かろやかに生きていくのが今の目標です。
思考と表現の軌跡① |身近なヒタキをどう詠むか。
ここで暮らし始めた当初から、もっとも身近な生き物のひとつで、いまも心惹かれる「ヒタキ」
冒頭の句は、「じょうびたき」と読むんです。
やっと言えた
尾をトントンと地面につけながら忙しく動き回り、気づけば飛び立っている。
見飽きません。
あの愛らしい姿と、消え去ったあとの爽やかな寂しさを詠みたいと思ったのが句の出発点でした。
思考と表現の軌跡② |”点線”とのアナロジーと葛藤
実は、今回の句はこの記事に合わせて作りました。
かつてそのフォーマットで挑戦していて散々苦労したので、できあがった句をもとに記事にしようと決めたのに、どうもピンとくるものがなく、記事の構成も考えながら推敲することに。
それもあり更新が遅れてしまいました
対象を観察していて、目に留まるのはやはりその動き。
いろんなアナロジー(類推)がはたらく中で、ノートや資料で使用する「点線」が浮かびました。
点線の矢印で指し示すのは、「未来」。
点線で囲むのは、ゆるやかなグルーピング。
記事の内容とマッチしそうな気がしました。
ただ、単体の句として成立させるには説明的になりすぎてはいけません。
以下のようなメモをしばらく寝かせたのですが、その点問題が残りそうでした。
点線で示す道筋尉鶲
点線で示すルートや尉鶲
点線で示す計画尉鶲
点線で示す明日や尉鶲
点線で示す未来や尉鶲
推敲の過程を晒すのがこのブログ。
毎回言わないと恥ずかしくて出せない
ここから「要素を減らそう」と決断し、紙資料のイメージから離れて抽象化する方向にシフト。
「あのかろやかな佇まいが、そもそも示唆的なのではないか」
そう定義して、飛び去るヒタキの残像、後ろ姿に託すことにしました。
果たして、どんな映像が浮かぶのか。もちろん、自由に鑑賞していただいて構いません。
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点線を残して去るや尉鶲
てんせんを のこしてさるや じょうびたき
季語:尉鶲(秋)
