四季の存在は、日本人の精神性に大きな影響を与えてきたのではないかと思います。
では、温暖化により春と秋が短い「二季」になりつつある日本では、そのメンタリティにも変化があらわれてくるのか。
そんなことを考える夜長。できれば秋の趣きにも浸りたいと思います。
必要な時期に、必要な人と出会うようになっている。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しています」
言われると、少しだけドキッとしてしまう。
「あぁ、前回会ってからそんなに時間が経ったと思われている(相手の中で存在が薄れている)のか」と気付かされるからです。
時間軸をチューニングして会話に入るだけで特にそれ以上の問題はないのですが、この感情はどこからくるのだろうと考えました。
ぼくはもともと、いわゆる寂しがり屋。
仲間はずれや人と疎遠になることに恐れを持っているタイプだったように思います。
「自分がいないところで何を言われているんだろう」
だいぶやり過ごせるようになりましたが、いまだについ考えてしまうこともあります。
あるいは「あのとき、あんなに頻繁に交流していたのに、最近会っていないな」と思うと自分が人間関係を維持できていないと感じて、ひどく落ち込むことも…。
でも、あとで聞いたら案外とくべつな理由はなくて、数年のブランクを経てさらに関係が活性化するという経験もしています。
なので今は、近づいていても離れていても「そういう時期なのかな」と思えるようになってきました。

単純に、年齢を重ねるほどに出会う人の数は増える。
でも自分の脳と体はひとつしかないし、時間も有限。
お互いに、家族や仕事の時期的な事情もある。
となると「すべての人との関係性を100点満点でキープする」を目標にすると減点しか生まれず自己肯定感やメンタルにマイナスしかないので(幼児教育のような話をしてますね)そこを諦めてから少し楽になりました。
とりあえずぼくは「久しぶり」とあまり言わないようにしていますが、あくまで自分がそうしているだけです。
仕事でも「お世話になります」という定型文を使いたくなくて、できるだけ「おはようございます」と言える朝にメッセージを送るという小さなこだわりにも近いかもしれません。
また、一時的にその人が弱っていることもある。
いかんとしもしがたいバイオリズムの中で、わたしたちは波が押し引きするように生きているのだと思います。
表題句について(思考と表現の軌跡) |昔のテレビゲームのように、並行移動する蜂を描けるか。
カジヤノの庭に、花の蜜を運ぶ蜂が今年は少なくとも3種類来ています。(妻観測)
「蜂は敵ではない」。
田舎で暮らしていると実感します。
これはパーマカルチャーの考え方にも通じること。
蜂は花々の受粉を助け、蜜をももたらす。
その役割を遂行するために、妨害する脅威となる人を刺す。
そう思うと、お互いに利害の一致しない部分があるだけということになります。
とはいえ古民家住人にとって、家の柱に穴を開けるキバチはただただ本当に迷惑なのですけど、、あれは自然界でどんな役割なのでしょう。
「秋の蜂」とは?
「秋の虹」などもそうですが、俳句で「秋の」と限定するからにはその意味があります。
夏場にあれだけ旺盛に暴れ回ったものの、秋には生気弱まる蜂の姿。
憎しみといれかえに、哀れみの気持ちもあったのだと思います
さらに冬となると、雄蜂は死が迫り、いっそうの悲壮感が漂ってきます。
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」村上鬼城
拙句では、視覚的なリアリティを目指してやや擬人化した表現に挑戦しました。その中に、哀れみとおかしみ、そして愛とを込めたつもりなのですが、どのように感じられるでしょうか。
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秋の蜂小腰屈めて巣に帰る
あきのはち こごしかがめて すにかえる
季語:秋の蜂(秋)

